[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
昨日は市内の中学校がこぞって体育祭を行っていたため、6つの学校を回ってきました。最後の学校についたときはもう終わってしまっていて後片付けだったのですが、生徒に会うことはできました。
昨日はお日様さんさんで、体育祭びよりだったのですが、おかげで帰ってきたときには鼻の頭が真っ赤になってました(笑)。あと首周りもツキノワグマのように赤い日焼けがw帽子を被っていけばよかったと少し後悔しています。
休日にこんなに外を移動しまくるなんて久しぶりのことで、私は凄く楽しかった。生徒の日常を垣間見たり、どんな学校で勉強しているのか知ることが出来て、本当に良かったと思う。ここが私の地元ではない分、私は他の同期(全員地元の人)よりももっと知る努力をしなければいけない。
確かに私は塾で教えているけれど、まだ全然自分の知識も足りなくて、ぺーぺーで。本当に救いようがないなぁと思いながら日々勉強しているのだが、昨日運動会を見に行って「きっとそれだけでもダメなんだ」と感じた。勉強を通じて、もしくは塾内でのやり取りを通じて、その子の人間性にもっと関わっていきたい。ただマニュアル通りに勉強を教えるだけの薄っぺらい参考書のような人間にはなりたくない。
人に嘘をつかない。約束を破らない。ほかの人に迷惑をかけない。
こんな当たり前のことですらできていない子が多い。そして「勉強だけが全てではない」という主張を理由に、自分が勉強しないことを正当化する。
確かに勉強だけが全てだとは思わないけれど、やっぱり勉強が出来ないと他のことも出来ないと思うよ。「自分はサッカー選手になりたいからサッカーの練習だけをしていればいい」という子はさ、サッカーということを理由に勉強から逃げているだけなんだよね。よく考えたら、世界的なサッカー選手になるためには当然語学力も必要になってくる。自分の体を管理するためには家庭科の知識や理科の生物の知識だって必要になるだろう。
まだまだ立ち止まっては居られない。どんどん上に伸びていきたい。
今回の日焼けを見るたびに、頑張るぞと、いう気持ちが私を駆り立てる。
一日が48時間あればいいのに。
つくづく最近そう思う。自分のキャパシティというか、限界を若干感じつつある。「まだいける、頑張れる」と思う一方で、「本当にまだいけるの?」という悪魔の囁きが心の中に生まれている。
「心の癒し」を一時的に失っているから、日々の疲れが持ち越しされるのだろうな。
やっぱり癒しって大切なんだなって今年に入ってから実感しました。昔首を振るだけの変な人形が流行った時期があったけど、あれのコンセプトもやっぱり「癒」だった気がします。世の中で一番癒しを必要としているのは、学生でも専業主婦でもなく、お仕事をしている人なんじゃないかなぁ。
じゃ、酒でも飲んで寝るか。
悪い事とか嫌な事って連続するから困る。ドカンとでっかい嫌なことがきたあとはそうでもないけど、じわりじわりと続く負の連鎖というのが本当に厄介でまるで微熱のよう。私にはこれがとても歯痒く感じる。
相手に対して腹をたてたわけではないが、嫌な気持ちになることはたまにある。相手が謝罪してくれればいいけれど、世の中そんな素直な人ばかりではない。
ちゃんと自分で消化していかないとな。
先日やっと『魔法少女まどかマギカ』の最終回が放映されましたね。地味に気に入って見ていた所為もあり、現在のお気に入りmusic はマミさんの戦闘テーマ曲です。美しすぎる。。。
ちなみみに小松菜さんが歌っているのがお気に入り。歌詞はどうやらイタリア語?なんて囁かれております。
それはさておき、最近少しずつ業務の方にも慣れてきました。社会と英語を色んな校舎&学年にちみちみ放り込まれていたのですが、これからは中1英語・中3英語・中3社会をメインとして、3つの校舎を受け持つすることになりました。本来なら1つの校舎に固定されるのですが、教科と人員の関係もあり、私は色々動き回るタイプらしいです。既に受け持ったことのあるクラスを担当するので、これから生徒達といい関係を築きつつ、成績を伸ばしてあげたいなとぺーぺーながらも思っています。
先日、中一英語のクラスでは確認テストを行ったのですが、とても感心させられた出来事がありました。
成績上位クラスでテストを行った際、私は幾度も「解き終わった子は何度も見直しをしなさいよ。ピリオドとかクエスチョンとか忘れてない?」と言いました。更に「それでも完璧だ!という子は英単語をゆっくり綺麗に書き直しておこうね。丁寧に書くことも大切だよ。ローマ字が見難くてテストでバツになったらもったいないよ」と追加発言。成績上位クラスということもあり、20分で解かせるテストをわずか5分足らずでとききっていた子も居たのだが、やはりそういう子ほど字が雑であったりうっかりミスをしている子が多いのも事実。机間巡視をしながら、昔の自分を思い出してほほえましく思って居たりします(笑)。私も結構うっかりミスで点を落とす口だったんですよね。いや…、うっかりなのは今でも変わってないけれども。
で、解説&各自丸付けが終わって答案用紙を回収。授業後に点数順に答案用紙を並び替えていたら、とある生徒が丸をつけた後、自分で三角に訂正していたんです。「ん?」と思って見ると、そこには「テストで-1点されるぞ!注意!」と赤ペンで書いた後、f の字の上部をしっかり四線(中一の初期テストでは英単語用の線があるのです)の一番まで引っ張っていた。この子は前からf を描くとき、f上部を上の線につけない癖があり、以前私が1度だけ指摘したことがあったのです。
これは、流石に感動したね。正直褒めてあげたかった。生徒がかえった授業後でなければ、間違いなく私は褒めていたと思う。その生徒は上位クラスの中でも一番テストの点数は低かったものの、この様に自分に厳しくなれる姿勢というのはとても素晴らしい。上位クラスともなると、自分は出来るとタカをくくってケアレスミスをしている生徒もいるのだが、この生徒の場合はどうしてもわからなくて1問だけ間違えてしまったのだろうと推測がついた。残念なことに配点の大きい問題をミスしてしまっていたのだが、きっと彼は家に帰った後、間違った問題を何度も練習するのだろう。
上位クラス以外も教えていると、中には小学生気分が抜けていないなと思われる子も居たりする。まだ中学生になって1ヶ月足らずだと自覚というものも芽生えていないのかもしれないけど、「先生、宿題多すぎるよ。減らして」と言ってきた子が居たのには苦笑してしまった。他の生徒に聞いたところ、学校の宿題はそこまで出ていないし、塾の宿題もそこまで出ているわけではないので、中学生になって小学生の時より少しだけ時間がなくなったことを理由とした甘えだろうな、と感じた。
確かに小学生の時と比べたら中学生は「時間がない」。それを理由に自分に言い訳したくなる気持ちも解らなくはないが、ならば君は一生小学生のまま過ごしていくのかい?高校生になっても、大学生になっても、今と変わらず同じような時間の使い方をしていくつもりなのかい?
自分はもう中学生なのだ、と早く自覚を持てた子が現時点の勉強量を決め、最終的に中学生時代の勉強量と質を決めるのではないだろうか。更に言えばどこまで自分に厳しくなれるのか。それによってテストの点数が伸びることも確かだが、もっと言えば、その子の人間性がより磨かれることだろう。
人生初の勤務月を通して、そんなことを学びました。
ツイッター連携機能というものがとうとう忍者にも導入されたらしいです。どんな機能なのかよくわからないので、まずは使ってみることにしました(・ω・@) うっとおしくなったら解除するつもり。
うん。でね、タイトルどおり厳と優の関係性について。
これは言ってみれば厳しさと優しさの関係性って事が書きたかったのだけれども。ちょっと解りづらい省略の仕方だっただろうか…。
厳しさと優しさは相対するものだと言う人が世の中にはいる。確かに言葉だけでみると間逆の位置にあるものだろう。だけどその本質を見たとき、果たして本当にそういえるのだろうか。これは私自身の経験だけど、高校3年生の時、ある男子部員の部活届けの紙を破って本人に突っ返したことがある。人の書類を破ることは悪いことだと解っていたし、後で顧問に怒られることも覚悟していた(実際後日厳重注意を受けた≪笑)。だけど、私は彼の部活登録所を破って本人に突っ返さなくてはいけなかった。あれから5年近くが経ったが、今でもあの行為に反省はしても後悔はしていない。
多分、私が誰かの為に本気で厳しくしたのは、あの時が最初で最後だったと思う。
私は本当に彼の演技が好きだった。当時私は演出を担当していたが、彼の演技はそのバリエーションの豊富さで飽きることが無かった。そして更に言えば、素の魅力でそのバリエーションの多さを編み出していることを単純に凄いと思っていた。一種の才能とさえ思っていた。しかし彼は学年が増すごとに、酷く甘い人間に変わった。部活にも全く顔を出さなくなり、それでも尚籍だけは置こうとした。私はそれが許せなかった。私は彼が好きだったからこそ、その甘えが許せなかった。嫌いじゃないからこそ、部活登録書を破って突っ返した。
今でもたまに誰かに厳しく当たることはある。でも、高校3年生の時ほど厳しくは無いと思う。それは、あの時ほど信頼できる仲間が近くに居ないからなのだろうか。本気でぶつかり合って、喧嘩して、泣いて、それでも一緒に何かを作っていく。そんな仲間がいないからなのではないだろうか。
嗚呼、高校生の時は、何にも縛られずにやりたい放題できたなぁ。今更ながらそう思う。
そして同時に、誰かが本気で自分の為に怒ってくれるのはありがたいことだと切に感じる。
私自身がいくら傷ついても、泣いても、事実に基づいて私の為に怒ってくれているのならば、私は喜んでそのお叱りを受けようと思う。それがきっと、次の一歩に繋がるはずだから。