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何のために勉強するのか
何のために生きるのか
何のために学校にいくのか
何のために人と接するのか
私は小さい頃から、これらの疑問に気がついては気がつかないフリをして、騙し騙し逃げてきた。頭が良くなかったから言い訳ばかりが上手になって、屁理屈こねる口達者になった。きっと、本能的にそれらと向き合いたくないと馬鹿ながらに察知していたのだろう。
賢い子供なら、きっと何かしらの目標を見出してそれに向かって突き進んでいく。それが例え「この社会への復讐」であったとしても、何も考えずに生きてきた私よりかは数百倍もましなのだ。
数十年前から、私が何故これらの疑問から逃げていたのか。今なら容易にわかる。
結局、私の怠慢でしかなかったのだ。
全てのことに対して「何のため」と考え出すときりがない。果てしなく長い時間と複雑な思考が必要になる。また、時には自己の存在価値についてまで考えなければならず、自己否定や社会否定までしなくてはならない。そして同時に「肯定よりも否定のほうが簡単だ」という論理が私の中で働き、私はどうにかしてそれらを肯定的に見てみようと労力を費やす。
私はそれらを面倒だと察知し、なるべく核心には触れないようにして生きてきた。そして目の前にある「楽しいこと」に没頭することで自分自身の目を欺いていた。
大学に入って東洋思想の授業を1年間かじった時、私の中での「何のために」の答は大方整理がついた。けれど、それは非常に虚無的で一片の希望すらない答だった。しかし論理としては非常に納得がいくものだった。先生は「こういう思想はあまり若いうちは触れないほうがいいんだけどね」と仰っていたけれども(笑)。
よく子供には夢を見させろだとか希望を持たせてあげたいとか、それこそ御伽噺のような話があるけれど、夢をみて希望を持って生きてきた子供が私みたいになるんだよ。目標もなく、ただただ毎日を楽しく過ごしてきた子供はロクな大人になりゃしない。それを自らの人生で表現しているとつくづく思う。
けれど、ならばいままでの自分の人生は全くの無駄だったのかと問われると、私は「No」と答えるだろう。自分の生き方を否定するのは簡単だ。だから私はそんなひねりのない芸当はしたくない。
確かに私の生き方は非常に狭い世界で構成されていた。世界とコミットする「何のために」からは目を遠ざけ、極力関わらないようにして生きてきた。狭い世界で少しのものしか見てこなかった。けれど、だからこそ確立したこともあった。それらは「他人と自分の関係について」だったり、「生と死について」だったり、「自分の事について」だったりするのだけど、結局自分がどこかしら関係していた。そして、自分について考え付くしたからこそ解った。「私の世界は狭すぎる」と。
最初から広い世界を知りたいという欲求があれば、こんな遠回りをせずにすんだのかもしれないが、過ぎたことを嘆いても仕方がない。
ここまで私がしてきたことは、足場作りだったのだ。
自己の世界の足固めはしっかりとできた。ならばこれからはその足場を土台に広い世界へと出て行くだけだ。
今の世の中、自己世界の足固めだけで満足しきっている学生が多いように感じる。つまり、その自己世界の足固めですら完成形に到達していないということなのではないだろうか。逆にいれば、それだけ社会が人間に直接的な干渉をしない世の中になったのだろう。情報革命が起こり、世の中は急激に便利に、そしてそれだけつながりが希薄に変化していった。
最初から自分の目標だけをみて生きてきた人間にとっては社会はツールでしかないから、こんな世の中が澄みやすいのかもしれない。けれど、狭い世界で、人に囲まれて生きてきた私は、淋しさを感じてしまう。
何のために生きるのか
何のために学校にいくのか
何のために人と接するのか
私は小さい頃から、これらの疑問に気がついては気がつかないフリをして、騙し騙し逃げてきた。頭が良くなかったから言い訳ばかりが上手になって、屁理屈こねる口達者になった。きっと、本能的にそれらと向き合いたくないと馬鹿ながらに察知していたのだろう。
賢い子供なら、きっと何かしらの目標を見出してそれに向かって突き進んでいく。それが例え「この社会への復讐」であったとしても、何も考えずに生きてきた私よりかは数百倍もましなのだ。
数十年前から、私が何故これらの疑問から逃げていたのか。今なら容易にわかる。
結局、私の怠慢でしかなかったのだ。
全てのことに対して「何のため」と考え出すときりがない。果てしなく長い時間と複雑な思考が必要になる。また、時には自己の存在価値についてまで考えなければならず、自己否定や社会否定までしなくてはならない。そして同時に「肯定よりも否定のほうが簡単だ」という論理が私の中で働き、私はどうにかしてそれらを肯定的に見てみようと労力を費やす。
私はそれらを面倒だと察知し、なるべく核心には触れないようにして生きてきた。そして目の前にある「楽しいこと」に没頭することで自分自身の目を欺いていた。
大学に入って東洋思想の授業を1年間かじった時、私の中での「何のために」の答は大方整理がついた。けれど、それは非常に虚無的で一片の希望すらない答だった。しかし論理としては非常に納得がいくものだった。先生は「こういう思想はあまり若いうちは触れないほうがいいんだけどね」と仰っていたけれども(笑)。
よく子供には夢を見させろだとか希望を持たせてあげたいとか、それこそ御伽噺のような話があるけれど、夢をみて希望を持って生きてきた子供が私みたいになるんだよ。目標もなく、ただただ毎日を楽しく過ごしてきた子供はロクな大人になりゃしない。それを自らの人生で表現しているとつくづく思う。
けれど、ならばいままでの自分の人生は全くの無駄だったのかと問われると、私は「No」と答えるだろう。自分の生き方を否定するのは簡単だ。だから私はそんなひねりのない芸当はしたくない。
確かに私の生き方は非常に狭い世界で構成されていた。世界とコミットする「何のために」からは目を遠ざけ、極力関わらないようにして生きてきた。狭い世界で少しのものしか見てこなかった。けれど、だからこそ確立したこともあった。それらは「他人と自分の関係について」だったり、「生と死について」だったり、「自分の事について」だったりするのだけど、結局自分がどこかしら関係していた。そして、自分について考え付くしたからこそ解った。「私の世界は狭すぎる」と。
最初から広い世界を知りたいという欲求があれば、こんな遠回りをせずにすんだのかもしれないが、過ぎたことを嘆いても仕方がない。
ここまで私がしてきたことは、足場作りだったのだ。
自己の世界の足固めはしっかりとできた。ならばこれからはその足場を土台に広い世界へと出て行くだけだ。
今の世の中、自己世界の足固めだけで満足しきっている学生が多いように感じる。つまり、その自己世界の足固めですら完成形に到達していないということなのではないだろうか。逆にいれば、それだけ社会が人間に直接的な干渉をしない世の中になったのだろう。情報革命が起こり、世の中は急激に便利に、そしてそれだけつながりが希薄に変化していった。
最初から自分の目標だけをみて生きてきた人間にとっては社会はツールでしかないから、こんな世の中が澄みやすいのかもしれない。けれど、狭い世界で、人に囲まれて生きてきた私は、淋しさを感じてしまう。
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