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寒い寒い郡山から無事に帰還し、現在静岡の実家でまったりしております。ヒートテックの装備はかなり強度が強かったです。流石にヒートテック1枚で外には出られないけど、トップスの下に着ておくと段違いの温かさでした。
さて、郡山に強制送還となった原因は祖父の入院が端を発しています。用事があって実家に電話をいれたら祖父が入院していることを知らされ、現在祖母の面倒をみるために父の実家(郡山)に母が赴いていることを聞かされました。その後、父の実家にいる母に電話を入れたら「12月27日から、もう一回郡山にくるんだけど、その時一緒に来ない?」と母に誘われた、というわけです。
26日の夜行バスで東京へ行き、東北新幹線で母と合流して向かった郡山は、とても寒くてとても懐かしかった。私が最後に郡山を訪れたのは今から約6年前、高校一年の夏。
父の実家には、あの頃と少しも変わらない祖母がいた。足が痛くてあまり歩けなくなってしまった事と、腰が曲がってしまった事を除けば、本当に昔と変わらない。昔と変わらずお喋りで世話好きな人だ。
病院の祖父は体力が落ちているようで、返事一つ出来ない身体になっていた。そんな祖父に「お母さんの事わかる?わかる?」と何度も何度も事をかける祖母を見て、自分の身体より祖父の身体を心配する祖母を見て、不覚にも泣きそうになった。
嗚呼、人ってこうやって老いていくのだな。
夫婦になるってこういう事なんだな。
そんな言葉が何回も思考の中を駆け巡った。
私は元来、父方の祖母が好きではなかった。けれど、必死で祖父に声をかける祖母の姿は、儚げで切なくて美しかった。翌日検査してもらったら、祖母も恥骨を骨折していた。けれど祖母は嘆いたりしない。「原因が分かったせいか、あまり痛くなくなった」とまで言う。そしてまた祖父の心配をする。
祖父は88歳。祖母は86歳位。
福島という寒い地で強くたくましく生きてきたのだろう。今まで大きな病気一つせず、自立した生活を送ってきたのだろう。
周囲がなんといおうと、あの土地で産まれ、結婚して子供を育て、最後は朽ちていく。それが祖父母の生きざまなんだ。
郡山にいった3日間は、人の生きざまについて考えさせられた3日間だった。
さて、郡山に強制送還となった原因は祖父の入院が端を発しています。用事があって実家に電話をいれたら祖父が入院していることを知らされ、現在祖母の面倒をみるために父の実家(郡山)に母が赴いていることを聞かされました。その後、父の実家にいる母に電話を入れたら「12月27日から、もう一回郡山にくるんだけど、その時一緒に来ない?」と母に誘われた、というわけです。
26日の夜行バスで東京へ行き、東北新幹線で母と合流して向かった郡山は、とても寒くてとても懐かしかった。私が最後に郡山を訪れたのは今から約6年前、高校一年の夏。
父の実家には、あの頃と少しも変わらない祖母がいた。足が痛くてあまり歩けなくなってしまった事と、腰が曲がってしまった事を除けば、本当に昔と変わらない。昔と変わらずお喋りで世話好きな人だ。
病院の祖父は体力が落ちているようで、返事一つ出来ない身体になっていた。そんな祖父に「お母さんの事わかる?わかる?」と何度も何度も事をかける祖母を見て、自分の身体より祖父の身体を心配する祖母を見て、不覚にも泣きそうになった。
嗚呼、人ってこうやって老いていくのだな。
夫婦になるってこういう事なんだな。
そんな言葉が何回も思考の中を駆け巡った。
私は元来、父方の祖母が好きではなかった。けれど、必死で祖父に声をかける祖母の姿は、儚げで切なくて美しかった。翌日検査してもらったら、祖母も恥骨を骨折していた。けれど祖母は嘆いたりしない。「原因が分かったせいか、あまり痛くなくなった」とまで言う。そしてまた祖父の心配をする。
祖父は88歳。祖母は86歳位。
福島という寒い地で強くたくましく生きてきたのだろう。今まで大きな病気一つせず、自立した生活を送ってきたのだろう。
周囲がなんといおうと、あの土地で産まれ、結婚して子供を育て、最後は朽ちていく。それが祖父母の生きざまなんだ。
郡山にいった3日間は、人の生きざまについて考えさせられた3日間だった。
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