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小さい頃、うどんとかパスタとかのゆでる時間について凄く疑問を感じてた。
「どうして違う量をゆでるのに、ゆでる時間は一緒なの?」って何度も母親に聞いて、何度も説明してもらったけど、あまり納得がいかなかった覚えがある。今考えれば当たり前のことなんだけどね(笑)
100gのパスタに対して8分のゆで時間なら200gなら16分にならないの?って考えてた小さい頃の私は、『対価』という考えを持っていたのかもしれない。1のものを得るのに3必要なら、2得たいときは倍である6の対価を払わなくてはならない。そう、考えてたのかもしれない。まぁ、その考えは時間ではなくて実際お湯の量ならば成立するのだけど私は時間を対価対象としてたのよね。
なら、私が今欲しいものを得るにはどれだけの対価が必要なのだろうか。
どれだけ対価を支払っても、それが物でなければ必ずしも手に入るとは限らない。例えばだけど、幸福を得たいからといってお金を払えば必ずしも幸福になれるとは限らない。友達になりたくて、その子のために何かしてあげても友達になれないかもしれない。今私が欲しいのはそういう類のもの。ヒトが相手となるとても漠然とした曖昧なもの。もしどれだけ対価を支払っても手に入らないなら最初から望むべきではないのだろうか。
でも最初から望まないというのは私のポリシーに反する行為。本当は欲しいのに欲しいとは言わないのは欲しくない証拠だと思ってる。逆に言えば本当に欲しければ欲しいと言えるはず。
……だからこそ迷ってる。自分が今何をしたいのか、何をどうしたいのかが解らない。ある人はソレを見て「青春だね」と笑うだろう。笑って遠くから見てるだろう。本当は、手を差し伸べてもらいたいのにな。隣にいて欲しいのにな。でもこのことをブログに、しかも反転させてしかかけない私はやっぱり臆病なのだろう。