×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
人を信用できない自分が嫌だ。大好きな人達に迷惑かけちゃう自分が嫌だ。否定される自分が嫌だ。こうやってまた悩むことで心配かける自分が嫌だ。やっぱり私は私が嫌いで、だから「他の誰か」になりたいんだろうな。私ぢゃなくなりたいんだろうな。
~2005年3月20日の日記より抜粋~
久しぶりに高校生の頃つけた日記を読み返している。基本的に私は記録を残すのが好きな習性があり、ノートでも手帳でも、どこかしらに必ず軌跡を残している。ちなみにこの日記は普通のノートに書いてあり、後ろが余っていたので就活の自己分析に活用している(笑)。丁寧に書かれた日記の後ろには半分殴り書きで自己分析が書き連ねてあり、その様はちょっと笑ってしまう。ま、私の生きざまなんてこんなもんだな、とも思うのだが。
確かこの時は長野まゆみさんという作家にどっぷりはまっていた。だから最後の一節に、わざわざ「ぢゃ」という表現を使っているのだ。同じ理由で、「言う」を「云う」と表現している。この頃の私は文字が人に与えるビジョンに興味があったのだ。
今現在でも軌跡を残す習慣は続いている。それはこのブログと、私の手帳である。ブログもあと一記事で三百記事となる。大学二年生から開始したこのブログも、もうすぐ二年目を迎える。たまに読み返してみると、行間や漢字の使い方が今とはかなり違っていて、ちょっと感慨深い。嗚呼、気がつかないうちに私も変わったのだなと実感する。
自己分析をするのが嫌いだと言う人がいる。だけど、私は自己分析が好きだ。こうやって昔の事を一つ一つなぞっていく作業がたまらなく好きだ。過去の傷もいまならそっと触れる事が出来る。それは時間というかさぶたが出来上がっているからだ。そうやって、私は自分が何者であるのかを確かめていくのだろう。これからも、ずっと。
~2005年3月20日の日記より抜粋~
久しぶりに高校生の頃つけた日記を読み返している。基本的に私は記録を残すのが好きな習性があり、ノートでも手帳でも、どこかしらに必ず軌跡を残している。ちなみにこの日記は普通のノートに書いてあり、後ろが余っていたので就活の自己分析に活用している(笑)。丁寧に書かれた日記の後ろには半分殴り書きで自己分析が書き連ねてあり、その様はちょっと笑ってしまう。ま、私の生きざまなんてこんなもんだな、とも思うのだが。
確かこの時は長野まゆみさんという作家にどっぷりはまっていた。だから最後の一節に、わざわざ「ぢゃ」という表現を使っているのだ。同じ理由で、「言う」を「云う」と表現している。この頃の私は文字が人に与えるビジョンに興味があったのだ。
今現在でも軌跡を残す習慣は続いている。それはこのブログと、私の手帳である。ブログもあと一記事で三百記事となる。大学二年生から開始したこのブログも、もうすぐ二年目を迎える。たまに読み返してみると、行間や漢字の使い方が今とはかなり違っていて、ちょっと感慨深い。嗚呼、気がつかないうちに私も変わったのだなと実感する。
自己分析をするのが嫌いだと言う人がいる。だけど、私は自己分析が好きだ。こうやって昔の事を一つ一つなぞっていく作業がたまらなく好きだ。過去の傷もいまならそっと触れる事が出来る。それは時間というかさぶたが出来上がっているからだ。そうやって、私は自分が何者であるのかを確かめていくのだろう。これからも、ずっと。
PR
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック